
1992年、音楽シーンはグランジ・ロックの台頭によって大きく変化していた。ラジオやテレビからは、ニルヴァーナやR.E.M.のようなオルタナティブ・ロックのサウンドが流れていた。その中で、ザ・キュアーのシングル「Friday I'm in Love」は、ひときわポップなメロディで耳目を集めた。この曲の明るい雰囲気は、当時の主流だったグランジの退廃的なサウンドとは異なるものであり、広く聴かれた。一方で、ロバート・スミスの独特な見た目や、ミュージックビデオの非日常的な世界観は、バンドを一時的なポップバンドと見なす要因ともなった。この曲のキャッチーさだけがクローズアップされ、アルバム全体の複雑な音楽性が十分に知られていなかったという側面がある。
多様な音楽性の集大成:ポストパンクから「ウィッシュ」へ
ザ・キュアーは、1976年の結成以来、一貫して独自の音楽を追求してきた。彼らのディスコグラフィーは、ポストパンク、ゴシック・ロック、ニューウェイヴと、様々なジャンルの要素が混在している。1980年代には「Boys Don't Cry」のようなポップな楽曲で成功する一方で、「Pornography」(1982年)のような内省的で暗い作品も発表してきた。1992年にリリースされた9枚目のスタジオ・アルバム『ウィッシュ』は、こうしたバンドの多様な音楽性が統合された作品である。先行シングル「Friday I'm in Love」は、アルバムの一部を占めるポップな要素を示している。しかし、アルバム全体を聴くと、その印象は大きく変わる。
「ウィッシュ」における音の多層性
アルバムの冒頭を飾る「Open」のサイケデリックなギターサウンドは、リスナーをザ・キュアーの奥深い世界へと導く。アルバムには、「Friday I'm in Love」のような曲がある一方で、「Apart」や「From the Edge of the Deep Green Sea」のような、深く内省的な長い曲も含まれている。特に、10分を超える「From the Edge of the Deep Green Sea」は、反復されるギターリフとロバート・スミスのヴォーカルが、聴く者を音の層の中へと引き込む。このアプローチは、単なるメロディの追求ではなく、音の質感や雰囲気を重視するサイケデリックな手法に基づいている。彼らのサウンドは、一見だらだらしているように聞こえるかもしれないが、それは内面世界を音として表現しようとする試みである。ロバート・スミスの歌声は、その柔らかさや表現の豊かさが、時間を経て聴くことでより理解しやすくなる。ポップなメロディと薄暗いサイケデリックな世界を行き来する「ウィッシュ」のサウンドは、ゴシック・ロック、ポストパンク、サイケデリック・ロックといった異なる要素が融合している。