最近、ノートで音楽記事を量産している。吹っ切れた感覚がある。
これまでは「しっかり調べて、正確な情報を整理してから書くべきだ」という固定観念に縛られていた。ハードルが妙に高くなり、時間とメンタルに余裕がないと記事を書く気になれなかった。
だが、ある時ふと気づいた。自分がネットの記事を読む時、客観的な情報や世間の評価をなぞったような記事には全く心が動かない。そんなのは調べればわかるから。
重要なのは「そのアルバムについて自分がどう感じたのか」という個人的な視点だ。
音楽を聴いて「これはいい」と思ったら、そのまま書けば十分だと割り切った。最近はiPhoneのメモ機能を使い、喋ったことを自動で文字起こししている。多少整える程度で、そのまま投稿している。喋る方が圧倒的に長く深い内容を出せる。文章にすると構成や文脈を意識してしまい、余計なブレーキがかかる。結果的に最近は量産モードに完全移行した。
間違いがあるかもしれない。世間の常識から外れた意見を書くこともある。しかし、平準化が進む中でそうした“ズレ”にこそ価値がある。
ノートに「フジロック、漂う小粒感」と書いた時も反響があった。Twitterでは「おっさんの戯言」と叩かれたが、そうした反応も含めて本音で語った結果だと受け止めている。
フジロックを美化して「今年のラインナップは〜」と書いても、書き手が自分である必要はない。クラプトンの記事も同様だった。ギターソロに感動したことはほとんどない。だから「クラプトンはギターじゃない」と率直に書いた。結果として賛否両論だったが、同じ感覚を持っている者もいるはず。わざわざ調べて世間に出回っている文章を書いても仕方ない。思ったことをそのまま書き散らすことこそ、自分に合っていると改めて思った。
今後も感じたことをそのまま書いていく。しばらく駄文量産。